プレミアム能登豚「豚輝」の誕生物語
当店が使用しているプレミアム能登豚「豚輝」がどのようにして誕生したのかをご紹介します。
※地元の玄米で育った美味しい豚肉
「全然違う!」畜産家 沢野さんの豚肉を食べた人は一様に驚く。
淡いピンク色、もちもちとした柔らかな食感、脂が溶けて甘味が口の中いっぱいにじゅわっと広がる。
畜産を始めて40年以上かけて辿り着いたのが「豚輝」だ。
石川県のほぼ中央、海沿いに位置するかほく市に農場はある。
長い砂浜から続く平野部では、昔から米や果物などの栽培が盛んで、山裾まで田畑が広がっている。
その一角に沢野さんが一代で築き上げた養豚場「農事組合法人 河北畜産」がある。
常時約2,000頭の豚を飼育し、年間約4,000頭を出荷している。
能登豚は能登の豊かな自然の恵を受けて飼育され、αーリノレン酸を一般的な豚の5倍も多く含む豚で、もちもちとした食感と甘味を特徴とする。
その中でも沢野さんの豚は品質が高く、肉にこだわる県内の精肉店やレストランなどで農家指定で取り扱われている。また地元かほく市では自慢の特産品として人気だ。
沢野さんの育てる豚の旨味の秘密は純粋品種の独自の交配と地元産の玄米にある。
育てているのはオランダ産の高能力種豚「TOPIGS」系統の豚。
「トピックス種」は、産子数・安産・泌乳能力・強健性のバランスが取れた品種で肉質が良いのが特徴。
通常はこれに肉が霜降りで成長の早い「デュロック種」を掛け合わせたものを食用豚とする。
しかし沢野さんは独自に肉質など研究を重ね、トピックス種にさらに発育が良く産子数が多く、胴が長いのが特徴の「ランドレース種」を掛け合わせた豚を母豚としている。
これに「デュロック種」を掛け合わせたのが河北畜産のプレミアム能登豚「豚輝」となる。
※融点の低い脂
こうして、これまでにない柔らかく、美味しい豚肉「豚輝」は誕生した。
「玄米の混ざった飼料を食べ続けると、まんで豚の血色が良い。筋肉質にならんとって、ふっくらと丸みを帯びた状態で育っていくんやわ。肉質が全然違ってくるよ。」とおっしゃっていた。
玄米の米糠には旨みを出す成分のオレイン酸が含まれており、肉に旨味が増した。
また、肉の色も変わった。
”さし”の入った淡いピンク色になり、ふっくらと柔らかく仕上がるようになった。
そしてなんといっても違いは脂だ。
その脂は一般的な国産豚肉よりも白く、融点が低い。
一般的な国産豚の脂の融点は36~37℃だが、「豚輝」は32~33℃。
つまり人の体温より低いのである。
「融点が低いと口の中でとろけていくんや。それで甘味がばぁ~っと広がるがんや。ソーセージやベーコンにしても旨いと思うわ。」
溶けやすい脂でありながら、さらりとしていて軽い。
食べた人から「とても美味しい。」という声が続々と届き、レストランからも「うちでもぜひ使いたい。」と注文が昼評判の豚肉となっていった。
※サラリーマンから畜産の道へ
沢野さんは稲作農家の7人兄弟の末っ子として生まれた。
小さい頃から動物が好きだったが、最初から畜産の道を選んだわけではなかった。
親が勧めるまま工業高校を卒業してそのまま地元の大手電子部品メーカーに就職。1年間勤めたが、どうも性に合わない。
どこかで「一国一城の主になりたい。」と思う自分がいた。
思ったら”測行動” あっさり会社を辞め、親の手伝いをしながら次の一手を考えた。
「米作りや野菜作りは季節で作業も違うし、収穫も収入も安定しない・・。」
当時は、数頭の豚を飼う兼業農家もあった。
友達の家で飼われている豚を頻繁に見に行ったり、泊りがけでお産の手伝いなどをするうちに「自分も豚を育てよう。」
そう決心した。
※はじまりは廃材を集めて作った豚舎
養豚業界の専門誌を読みあさり、目に飛び込んできたのが、当時、東京の奥多摩でこれまでにはない養豚を行っていた農業法人だった。
元教員の父と早稲田大学を卒業した息子が「いかに事業として成功させるか。」を重視し営む養豚場。
そこの農場では市場へ出向き魚の残滓を集め穀物と配合する独自の飼料作りから、豚の配送まで全てを一貫して行い、コストを半減させていた。
その新しさに惹かれ、沢野さんはそこで働きながら学ぼうと決めた。
21歳で単身上京。
そこで研修していたのは、大学を卒業したばかりの若者や獣医、ブラジルへ渡り一旗揚げようという青年など、大きな夢を抱く者ばかりだった。
若く活気あふれる環境の中で、沢野さんも養豚をゼロから学び、飼料作りから出荷・豚の解体・配送まで他の養豚場ではできない経験を積んでいった。
途中、その養豚場は千葉県の木更津へ移転。
50haもある広大な山地を自分たちで開拓し、整備していった。
「電気も通っていない山の中だった。木を伐り、ブルトーザーで道をつけ測量し、溶接から何から全部勉強しながら豚舎を手作りで建てたんです。」
この時の経験が「やればなんでもできる。」という自信になった。
3年後、地元かほく市に戻った沢野さんは、家族に出資してもらい3万5千円で会社を設立。
飼う豚は修行先から譲り受けたわずか5頭。
養豚場を作る資金もなく、とりあえず50万の借金をし、父から譲り受けた農地に廃材を集め、一人でコツコツ豚舎を建てていった。
その後、すこしずつ豚を増やしていき、どうしたらいい豚肉を作れるか専門家のアドバイスも聞きながら、一つ一つを実践していった。
開業から42年、一人と5頭から始まった会社は、社員5人、豚2,000頭を育てるまでに成長した。
※すこやかに育てるのが使命
畜産は「命」を相手にする仕事だ。
42年の間にはその「命」を扱う難しさを痛感する出来事もあった。
沢野さんが30代の頃、豚が次々とウイルス性の流行性下痢に感染し、痩せて出荷出来なくなるという事態に陥った。
獣医の支持のもと治療し、豚の足が糞などで汚れたら一頭一頭拭いて回るなど衛生管理を徹底した。
感染が収束し、豚が健康を取り戻すまでに実に1年以上もかかった。
だからこそ「病気をさせない、持ち込ませない、見逃さない。」ことに今でも一番神経を使う。
沢野さんは調子の悪い豚は一目で判るという。
元氣がない、隅に寄る、尻尾が下がる、呼吸の仕方がおかしい、体が細い・・・わずかな変化も見逃さない。
「健康で素直~にずっと育った豚が一番良いげん。」
当たり前のようだが、それを実践することこそが畜産課の使命であり本分なのだ。
※女子力が支える豚舎の毎日
今、河北畜産は新たなステージを迎えている。
高齢になり豚舎での作業が難しくなった沢野さんに代わって、2,000頭もの豚の飼育を任されているのは20代の女性3人。
3人とも動物好きの理系女子で石川県立大学の卒業生である。
朝8時、彼女たちの仕事が始まる。
まずはそれぞれの担当の豚舎に分かれ餌やりと糞の掃除。
一人で掃除をするには広い豚舎だが、清潔であることは豚の健康管理には欠かせない。
同時に豚の状態をチェック、調子を崩している豚がいないか目を配る。
母豚は170頭おり、毎日のように出産が行われている。
平均して一度に13~14頭子供を産むが、多い時には20頭産むこともある。
産後の母豚や子豚のケアはとても大切だ。
出産が集中した日はてんやわんやの大忙しとなる。」
子豚にワクチンを投与したり、母豚に人工授精するのも大切な仕事だ。
さらに、一日おきに出荷があるのでその対応にも追われる。
彼女たちはそうした仕事を手分けし協力しあって働く。
沢野さんはそうした彼女たちの働きぶりに感心している。
「みんな汚いことを嫌がらんわいね。体に糞が付いとっても知らん顔して仕事しとる。女の人っていうんは細かい配慮をするんやわ。観察も細かいし手抜きをせん。彼女たちの管理能力は日本の畜産会社の中でもトップクラスの成績や。」
通常産まれた子豚をすべて死なせずに育て上げることは難しい。
踏まれてしまったり、生まれつき弱いものもいる。
しかし河北畜産では彼女たちの細やかな管理によって一般的に生育率が10頭前後のところ、12~13頭と高く、業界内で表彰されるほどの成績を収めている。
「わしはもう小間使いや、あの子らの言うとおりにハイハイってな(笑)」
そういう沢野さんは彼女らに全幅の信頼を置いている。
※特別な豚じゃなく、誰もが食べられる美味しい豚を
今は飼育することに精一杯な彼女たちだが、将来畜産家としてやっていくならしっかりとした心構えが必要だと沢野さんは言う。
「自分で未来を切り開くような考え方で努力し、より良い方法を探していかないと続かない。」
とは言え彼女たちを畜産の世界に縛る気持ちはない。
ここで「命」と向き合い汗を流した経験は、この先どんな道に進むとしても必ず彼女たちの人生を励まし支える力になると確信している。
どうするかは彼女たちが選んでいけばいい。
「決して高級なブランド豚作りをしたいわけではない。」
と沢野さんは言う。
「付加価値の付いた特別な豚を作りたいわけじゃない。日々食べるものなんやから誰もが食べられる、見た目も良くて味も良い。そんな豚肉を作りたい。」
消費者に寄り添うこと。
そのために生産性、採算性も見据えて美味しい豚肉を作っていく。
河北畜産の沢野さんと若き女性たちのこだわりながらも気負わない、おおらかな笑顔が「豚輝」の優しい味ににじみ出ているような気がした。
現在は、周辺の住環境の変化やご自身の体の都合が悪くなり残念なことに2019年9月いっぱいをもって廃業されてしまいました。
しかしその意志や技術は次世代に引き継がれ、今後も継続されていくことでしょう。